伯父と私
元気な稲の秘密
 私が小学校低学年の頃、私が金子伯父に連れられて隣村まで出かけて行ったときのことです。歩いていますと、伯父は道の途中にあった田圃を指差して「ここの田圃をよく見ろ」と言いました。その日は大雨の後で、周囲りの田の稲は倒れかかり葉っぱの先が垂れていたのですが、その田圃の稲だけは何故かチャンと立っていて、穂先に雨粒が刺さっていました。不思議に思いながら眺めていると、伯父は「クワ使いの邪魔にならない位の石灰岩を入れるとこんな風になるんだ」と解説してくれたのです。これが伯父からカルシウムについて聞いた初めての思い出です。
 当時、私の家には隣村からよく農家の青年が遊びに来ていました。この青年に伯父が盛んに話しかけていました。恐らく青年は、私が聞いた石灰の話を聞いたのだと思います。ある日、青年はトラック数台分の石灰岩のくずを採石場からただでもらって来て、自分の田圃と畑に入れました。石灰岩の大きさは親指の頭より小さめ位の大きさのものでした。今にしてみても、その青年は良く試したものだと思いますが、その結果は目を見張るほどでした。
 まず、その田圃では農薬を撒く回数が半減しました。実った米の粒の数は以前と変わりませんでしたが、重さは増えました。しばらくすると、どこからか寿司屋さんが美味しい米だと目を付け、全部買い取ってくれることになったそうです。野菜の方もまた、ほうれん草などの日持ちが良いと市場で評判になり、高値で売れるようになりました。
 5年ほど経ってから青年が、栽培方法について青年部の集会で話す機会がありました。皆もうすうす彼のやり方が気になっていたので、是非やってみようと言うことになりました。ところが、そのことを知った農協は黙ってはいませんでした。他の集落と同じように割り当てられた農薬を買え、それが組会員の義務だというのです。そこでこの話は頓挫してしまいました。青年が一人でしている分には目こぼしがあったのですが、集団では困るというわけで、残念な事であったと思います。
 石灰岩を施した田圃では、稲が乾燥した後も、藁が重たくて繊維が粗いという特徴が見られます。調べると、成分のなかにカルシウムのほか、珪素が多く含まれている事が分かりました。あの日伯父と見た田圃の稲が少々の風では倒れなかったのは、この珪素を多く含むことが理由だったのでした。
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ビールを飲みながら思い出すこと
 私が高校生の頃です。伯父に連れられて福岡市内の竹下にあるサクラアサヒビールの工場を訪ねたことがありました。当時工場長であった室さんは伯父の旧来の友人で、その時に室さんのインドネシア駐在時の思い出話しを聞くことができました。第二次戦争が始まり、日本軍がインドネシアに侵攻していた頃、金子伯父の弟はインドネシアのスマトラに医学校を作るために派遣されていたそうです。そして伯父の友人の室さんも、その時期にインドネシアにビール工場を造りに行っていたのでした。
 南方の地でのビールづくりに苦戦していた室さんから、伯父に「どうも巧く発酵しないのだが、何か方法はないだろうか」と相談があったそうです。伯父は、大学卒業後北九州の門司にあるサクラアサヒビール(現サッポロビール)に勤めた経験がありました。相談を受けた伯父は、海水を沸かして殺菌し、その少量をビールの発酵タンクに入れてみるよう勧めたそうです。早速にその助言を試した室さんは、この製法で無事ビールの発酵を成功させることができたのだそうです。
 この時の話から、発酵菌の活動にも微量であれミネラルが必要だということを伯父は私に教えてくれました。今でもビールを飲むと、時々あの時の伯父の話とアサヒビールの工場風景を思い出します。
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伯父と散歩
 金子伯父はまったく散歩というものをしない人でした。
 学生の頃には陸上競技やラグビー部を、社会に出てからもゴルフやスキー、乗馬をたしなむなど、今で言うスポーツマンであり、またサンクロンの本格的製造にあたっては、原料のクマザサを求めて長野を始めかなり広範囲の山中を歩き回ったそうです。しかし、日常生活では散歩はもちろん、ほとんどといっていい程に運動というものをしませんでした。
 ある時、伯母に伯父の東京での生活について尋ねたところ、「家では全く動かない。原稿を書いているときなどお昼も食べないで机に座り込んでいる」と話していました。「隣の哲学堂に行けば絶好の散歩場所があるじゃないですか」と言うと、もう10数年行ったことがないような話しでした。私が伯父になぜそんなに動かないのか尋ねると、「動かないでいるとどういうことが起きるか自分の身体で試しているところだ」と、話していたものです。
 伯父は常々言っていました。「一般の者に鍛錬・訓練は必要ない。自分で日常生活をする、仕事をするのに必要な体力があれば十分だ。それよりも、手足をさすり、身体のあちこちを小さく動かして血流を良くしておけば良い」と。
 伯父が70歳を過ぎた頃から、私は福岡に来た時の伯父のスケジュールを管理するようになっていました。伯父が東京ではほとんど動かない生活を送っていることを知っていた私は、福岡ではほぼ毎日のように、ときには日に2箇所の講演スケジュールを組んで、講演の行き帰りには、短時間ですがあちこちと連れ回しました。疲れが出ませんかと尋ねると「なんというこはないよ」という答えでした。伯母も元気で、いつも一緒に付いてきていました。
 さすがに伯父も80代になると講演の数を少しずつ減らして、1日に1カ所にしました。それでも泊まり込みの研修会では、2〜3日は立ったままでしゃべり通しということもあり、その姿は健康そのもの、という印象でした。
 そんな伯父の姿は、特別な鍛錬や訓練といった運動は、健康という観点から見れば必要はないのだと身をもって教えてくれたようにも思います。怠け者の私にはたいへん好都合な教えでもある訳です。
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水不足のある日
 金子伯父は普段から水を粗末に扱うことを大変嫌いました。
 東京で水不足による断水があった後に、伯父の家を訪ねたことがありました。水が足りなくて大変だったという話を聞いていますと、お隣に水を分けてあげなかった、というのです。
 実は、伯父は庭の隅に大きな鉢を埋けていて、屋根と庭に降った雨水はいったんその鉢に貯まる仕組みにしていました。大雨になると鉢から溢れ出た水で庭は水浸しになるのですが、庭の土に雨水を充分吸わせるようにしていました。また晴天が続くような時期も、鉢の水があれば庭や植木鉢に撒くには大方間に合うと言っていました。また庭には、昔ながらの手押しポンプも現役で活躍していました。
 お隣の家でも、以前は手押しポンプを使っていたのですが、水道が通ると早々とポンプを処分してしまったそうです。伯父は水道水を庭にふんだんに使うのが気に入らなかったのでしょう。水不足になって、お隣から水を分けて欲しいと所望されたとき「飲み水に困っているならまだしも庭の水までは分けてやれない」と言って断ったということでした。なんとも伯父らしいエピソードです。
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食べ物の好き嫌い
 小学生の頃の話です。
 私は納豆が好きでは有りませんでした。当時私の家では自家製の納豆を作っていましたから、台所から大豆を茹でる臭いが流れてきただけで嫌な気分になったものです。でも近所のおじさんに作ってもらったワラつと苞に、茹で大豆を詰める作業は楽しく、よく手伝いました。
 自家製の納豆は今よりもずっと豆臭いものでした。朝食の時にくさい大きなワラ苞を3本程渡されて、まだかまだかと言われながら丼に取り出して混ぜるのも結構大変でした。混ぜ終わると自分には少なくとって、残りを隣に渡していました。
 それを見ていた金子伯父が私に言いました「美味しいと言って食べている人がいるのだから、よく味わって何処を美味しいと言っているのか探してみろ」と。
それ以来だったか、その後しばらくしてからか、好き嫌いを言う前に何でも味わってみようという好奇心が湧いてきたように思います。今ではマーケットや市場に出かけるのが大好きで、たまに珍しい物に出会うと必ず試し買いをしては味わっています。
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空気中の酸素量
 ある時、「空気中の酸素の量はどの位か知っているか」と伯父に尋ねられたことがありました。私は「21%」と答えてから、すぐに訂正して「20、95%です」と答えましたが、それは違うと言われました。現実には上下に10%程変化して一定ではないというのが正解で、それ以前にも金子伯父は、医師の小野寺直助先生(九州大学名誉教授)に同じような質問をしたことがあったそうです。小野寺先生曰く、「金子君が訪ねてきて『先生、空気中の酸素量は一定ですか?』と尋ねるから『そりゃー変化するよ』と答えたよ。金子君のお父さんも面白い人だったが、あの親子は何を言い出すか分からん」と笑いながら話しをされていました。 
 さて金子叔父は、戦後まもなくから気象庁が毎日午後3時に発表する気象データをもとに空気中の酸素量の計算を行っていました。その結果、基本的に酸素量は、3日程低い日が続くとその次の3日は高くなるという変化を繰り返しながら、年間を通じて春から夏は少なく、秋口から冬の間は多くなるという測定結果が得らました。この3日程の変化というのは、西から東への気圧の移動に相対しています。私はその資料を直接目にしたことはありませんが、実際に見た人の話では膨大な量のものであったということです。
 福岡ライブリー学院を開講するに当たり、私が教科書作りを始めたときに、酸素量を換算するための方法を知りたくなりました。地元の福岡を始め数カ所の気象台に問い合わせましたが、誰も酸素量の算出方法を知りませんでした。そこで気象学会にも問い合わせてみましたが、誰も興味がある風ではありませんでした。気象学の事典や理学事典にあたってみても換算式についての記載は見当たらず、金子叔父が亡くなった今となってはデータも行方不明で知る由もありません。とても惜しいことをしたと思います。
 学院の教科書には、理学事典に記載されいた次のことを書きました。
「吸気中に酸素が21%あるための条件は、緯度45度・気温15度・気圧1気圧・標高0m・湿度0%である」。しかし、この条件に合う場所は現実の地球上にはあり得ません。そして、実際に酸素量をはかる機械を購入し測定してみましたところ、夏場の少ないときは18%台、冬の多いときは22%台の数値が測定されたのでした。
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たばこを止めた日
 金子伯父はたいへんなヘビースモーカーでした。私の最初の記憶にあるときから既に、日に60本は吸っていました。講演の最中もそれは代わらず、火のついたたばこを灰皿に置いて黒板にチョークで何かを書き出すと、その間に燃えつきたり、忘れて2本目に火をつけるということもしばしばでした。そんなふうでしたから、2時間ぐらいの講演が終わると灰皿には吸い殻の山ができていました。伯母から聞いた話しでは、自宅で原稿を書くときはもっと多かったようです。
 伯父の70才の誕生日が間近なある日のこと、私は哲学堂の伯父の家を訪れていました。その夜は誕生祝いの食事会をしようということになり、中華料理か何かを食べに行ったと思います。食事が終わり伯父の自宅に帰り着いてから皆でお茶を飲んでいると、伯父が急に「今日で俺はたばこを止める」と言い出したので一同驚きました。伯父はあちこちに置いてあったたばこを掻き集めて私に渡すと、その日を境にきっぱりとたばこを吸うのを止めてしまいました。
 たばこを止めてからの伯父は、原稿書きが進まず2年ぐらいは困っていました。しかし自分が吸うのを止めても、私をはじめ周囲の人にたばこを止めるよう忠言するようなことはありませんでした。自分の身体のことは自分の意志で責任をもって決めるべきという、確固たる考えが伯父にはあったのだと思います。
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「ねばならない」のわけ
 創健会での金子伯父の講演は、いつも黒板に以下の七つの文章を書くことから始まりました。

 人が活きていることが成り立つためには
 一つ 環境がなければならない。
 一つ 生活体がなければならない。
 一つ 神経(心)がなければならない。
 一つ 呼吸をしていなければならない。
 一つ 水分をとってなければならない。
 一つ 養分をとっていなければならない。
 一つ 動いていなければならない。

 毎回必ず“ねばならない”の最後の一文字まで省略することなく書いていました。そして、「これらはどれ一つとしていい加減には出来ない条件であるから、“ねばならない”の文字は書いておかねばならぬものじゃ」と言っていました。
 この7つの条件の一つ一つは、人の生き死に関わるものであり、決して他人が肩代わりできないもので、自分が日常生活の中で充足しているものです。だから必ず7つの条件はすべてが揃って充たされていなければならない。この充足の仕方が下手だと病気にもなり、充足が上手な生活であれば健康にも成り得るのです。この7つの条件に基づいた生活を「基本生活管理」と称して、またこれ自体を自らが管理するのが本来の姿である、というのが伯父が提唱した創建の理念でありました。
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