 金子伯父との初めての出会いは昭和22年(1947)生まれの私が8才の頃のこと。私には記憶がないのですが、伯父が自ら開発した医薬品・サンクロンを持って朝倉の我が家を訪ねて来たのときだったようです。
母に聞くところによると、この頃から金子伯父は「創健」という言葉をつくり健康のこと、病気のことについての自らの考えを話し始めていたそうです。
私の最初の記憶にある伯父は、私が小学校の5年生のときに姉たちが福岡市内の女学校に通うために福岡市内に引越をし、その家にしばしば伯父が訪ねてきたときの姿です。その頃の伯父夫婦は「創健会」開催のために毎月のように東京からやってきては、我が家の二階を常宿に一週間から10日程滞在するのでした。  伯父夫婦がやってくると、私たち兄弟の2、3人が国鉄の博多駅に出迎えに行くのが決まりで、博多駅からはタクシーに乗って我が家へ帰りました。当時はタクシーに乗るのが嬉しく、私もよくお迎えに行ったものです。姉たちの思い出によれば、伯父夫婦の来訪はまるで東京から都会の風が吹いてきたようで、話題もファッションも何もかもがとても新鮮だったと言います。 当時の創健会は天神のクラブ九州を会場に開催されていました。会は小野寺直助先生(九州大学名誉教授)の講話から始まるのが恒例で、先生のにこやかな話しぶりを覚えています。その後を伯父が講演していました。
 私が中学生の頃になると、金子夫妻は母を伴って各地に創健の講演に出かけるようになっていました。必ず出向いたのは甘木市の安川村と朝倉の家でした。帰ってくると講演での出来事を話してくれるのですが、当時の私にはまだ難しくて何の話か分りませんでした。
昭和37年9月、創健会の本部は福岡に置きたいという伯父の意向により「日本創健会」が福岡で発足し、その第一回の創建会が福岡市で初めての近代的ビルであった、出来たばかりの天神ビルで開催されました。初代会長は、圧痛点の研究で世界的に有名な小野寺先生でした。政財界からの参加者も多く、バスが仕立てられて大人数が出席していました。私は会場の隅に座っていたことを僅かに記憶しています。
小野寺先生とは、時に街中で偶然に出会うことがありました。先生はいつも私のお尻を押しては「ウイスキーは生で飲んじゃいかんぞ」と茶目っ気たっぷりに言われたものです。当時まだ15歳の私は「まだ酒は飲んでいません」と答えるのが精一杯で、先生がお持ちの往診かばんを「そのあたりまでも持ちましょうか」と尋ねるのですが、いつも決まって断られました。後に知ったことですが、自分で鞄を持てなくなったら、そのときは医者を辞めようと決めておられたのだそうです。先生はまた「たばこは良いぞ、あれはつばが出るからな」などと冗談まじりに話され、いつも笑いの絶えないたいへん温厚なお人柄でした。
 創健会の活動が活発になるに従い、金子伯父は福岡以外にも甘木・佐賀・熊本・北九州・飯塚・久留米・大牟田の例会、さらには各地から依頼先へ講演にでかけるようになりました。一方、家では色々な話をする機会があったのですが、私たち兄弟はもっぱら聞き役で、私などが質問をしても「自分で考えろ」と言われるのが関の山でした。また、その頃からよく伯父の使いにも行かされました。 当時、九州電力の社長であった瓦林潔さんのところへ行ったときのこと、会社の待合室でしばらく待ってから社長室に通されると、たくさんの方が談笑中であったり、ご自身が電話中であったりして、私は部屋の隅っこでいつまでも用件を切り出せない、といったことも再々でした。また、時にはお一人でいるところにお目にかかることができ、金子伯父の近況や各地の創健会の活動状況を報告しました。後に瓦林さんは三代目の会長になられました。二代目会長は衆議院議長の石井光次郎さんでしたが、残念ながら私は石井先生にお目にかかることはありませんでした。石井先生は金子伯父が作った「創健十章」のなかの“寄りかからず 寄りそう”の言葉がお好きであったそうで、私はこの言葉が書かれた石井先生の書を頂いたことがあります。
昭和29年(1956)より、金子伯父の創健思想の発表の場としてタブロイド判の「創健」が刊行されました。そして昭和39年(1964)にはA4版の冊子になり、昭和44年(1968)には「創健生活」と改題しています。その通巻109号、改題3号の8月号から最終の通巻469号まで、表紙の裏に下記の文が掲載されています。
健康であることも
病気であることも
生活のすべての結果である
健康も病気も 環境の中でこの身体が
神経や心をはたらかせて呼吸をし
水を飲み 食物を食べ 動きながら創った
自分自身の状態である
健康は この自覚を 生活することで
自分が創るものである
「創健生活誌」が毎月届くたびにこれを読んでいた私は、金子伯父にこの文章に表題を付ける気はないのか幾度か尋ねたのですが、このときにも返事はもらえませんでした。伯父が亡くなった今では、表題はなくても良いものように思っています。
昭和39年頃からだったと思います(私が17才の頃)、金子伯父をスポンサーに九州大学集談会が始まりました。心理学の秋重先生の教室をお借りしての集まりでした。土曜日の夕方から、学内の先生方を招いての講演とその後の質問の時間があり、後は少々のつまみとビールを片手に談笑するという会でした。講師の人選と日程は心理学部の学生が決め、毎回各学部の掲示板に張り出されました。九州大学は総合大学ですから多くの学部があり、多彩な顔ぶれの講師陣が迎えられ、1月と8月を除き毎月開催される会には、金子伯父も毎回東京から出席していました。講師は各分野それぞれの専門家で、出席者との間でなされる分野の垣根を超えての質問・対話は、当時画期的な内容のものであったと思います。私には専門的すぎて解らない話も多くありましたが、学部を横断して毎回30〜50名ほどの方々が集まり、楽しそうに懇談されていたことを覚えています。伯父も会の盛り上がりに大いに満足しているようでした。
この集談会は約10年にわたり続きましたが、近所の板付飛行場から飛び立った駐留米軍のファントム戦闘機が、建築中の工学部の建物に墜落するという事件が起き、残念なことにその後は中止となりました。
私が高校生のときのことです。昭和38年10月、父が福岡市へ出てきて、調医院(屋号は一樹堂)から創健診療所と名を変えて開業することになりました。普通の開業医をしていた父は、金子伯父による創健の考えの7つの条件を実際に患者さんに当てはめ、新しい治療を実践してみたいと考えたのでした。このきっかけとなったのは、金子伯父が私の両親に問いかけた「医者は“お大事に”と言うが、言われた患者さんが振り返って“具体的にどうすれば、お大事にする事になりますか”と問うたら、どう答えるか考えたことがあるか」という言葉であったそうです。
創健診療所の治療は、その基本理念「病気は日常生活の結果である」ことを患者さんに理解してもらうことから始まりました。入院患者さんの食事には母が作る「創健食」が出されました。投薬はサンクロンとカルシウム剤が主で、呼吸不足の人には酸素吸入を行いました。当時は健保適用のカルシウム剤に適当な物がなかったために一般用の医薬品を使い、酸素も保健適用  外でしたので保険請求ができずに無償提供するというスタートでした。サンクロンそのものも安い医薬品ですから、一人あたりの保険請求額は少額であったそうです。後になって私が九州サンクロン(株)の仕事を手伝うようになり、各地のサンクロン投薬医師を訪ねたとき、当時の保険担当の医師は私が調医院の子供であることを聞くと、当時の父の保険請求額は福岡県下で最低であった、あれでよく生活ができたねと言われたものです。
一方、母の作る創健食はとても好評で、患者さんのなかにはメニューを一通り食べ終わるまでは退院しないという方や、奥さんを呼び寄せて料理のメモを取らせる方もいる程でした。創健食は、野菜を食の中心に据えてタンパク質は大豆製品を主とし、砂糖や味醂を使わない薄味の調味が特徴です。カロリーは少なめでもよく噛んで食べるために満腹感が得られ、皆さん満足しておられました。
また、胃腸を悪くしている患者さんには、硬めに塩茹でした大豆を湯飲み1杯量渡して1日かけて一粒ずつをよく噛むよう指導を行い、入院室には短冊に書いた「唾だし100回」の標語を掲げて  いました。こうした患者さんは、酢の料理を多くとって唾液をよく出るようにすると治りが早くなるのでした。私は土曜日の午後になると決まって父について、野菜市場への買い出しに行ったものです。
診療所には遠方から急に訪ねて来て入院を希望する方もありました。そんな時は自宅の1室を提供したり、それでも足りないとお向かいの2階の2室を借るといったこともありました。にわか造りの診療所でしたから、入院患者用のお風呂はなく、今ではとても考えられないことですが、夕食後に患者さんと住み込みの看護婦さんが連れだって近所の銭湯に出かけていく様子はのどかなものでした。 父は珍しい症例があると、患者さんの記録写真を私に撮るように指示しました。この頃になると、福岡滞在中の金子伯父はホテルに泊まるようになっていましたが、我が家にやって来てはサンクロンの効果について、血液検査やレントゲン写真や私が撮った症例写真をもとに夜遅くまで父母と話しをしていました。
 父が福岡市で開業するにあたっては、地元の開業医たちからの反対がありました。最終的に近所の患者さんは治療しないということで、父は開院を認められたのでした。従って創建診療所の患者さんは殆どが遠方からの方、そして慢性病と言われる方たちばかりでした。数年経つと、毎日通院の患者数は100人から150人にのぼるようになりました。当時(今もですが)の保険診療では色々と制限があり、父は思うような診療ができないことを悩んでいました。小野寺先生や日本医師会の副会長であった清沢 又四郎先生が父を案じて、自由な診療が出来るよう保険医の辞退を勧めてくださいました。その考えに伯父も賛同し、自費診療での創健診療構想を進めようと、そのための土地を福岡市近郊に購入しました。こうして創健治療の評判は少しずつ世間に知れ渡るようになり、父にも講演依頼がくるなど、ますます忙しく動くようになりました。
金子伯父の医薬品サンクロンの工場は長野県の丸子町にありました。19歳で当時大学浪人中だった私は、1年間を工場で過ごして工場の隣町の東部町で車の免許を取りました。工場からは月に2回程東京本社へサンクロンを運ぶ定期便があり、夜の11頃工場を出てゆっくりと東京の哲学堂へ向かい、本社に朝5時ごろに着くと、従業員が出社したところで積荷を降ろします。私はこの便に同乗して金子伯父の自宅を再々訪ねました。東京には高校時代からの友人がいましたので、その後は友人宅を泊まり歩いて2、3日するとに工場へ帰るというような生活を送っていました。
その頃に、お茶の水の日仏会館で東京創健会の月例会があって数回参加し  ました。そこで“創健とは、ただ単に健康を創ると言うことではなく、病気も自分で創ったものであるとの認識である”の言葉を聞いた私は、身にしみるような思いをしたことを覚えています。
1年間の長野生活が終わると、私は福岡の実家へ帰りました。相変わらずの浪人生活でしたが、金子伯父は運転手の私を得たことで、あちこちの講演や息抜きのドライブに私の運転で出かけました。
九州でのサンクロン販売も大がかりになりだしたため、母は金子伯父の仕事を手伝うようになりました。昭和41年の12月、母を代表者として九州サンクロン(株)を設立し、サンクロンを取り扱う薬局・薬店さんの研究会が「薬業創健会」の名で始まりました。研究会は各県で開催され、追って全国連合会が結成されると、「特別研修会」という泊まり込みでの全国研修会が行われるようになりました。当初は薬業界の関係者のみを対象としていましたが、創健会の一般会員からの要望を受けて参加制限をなくし、多くの方々が参加できる門戸の開かれた会となりました。
ようやく大学に入学して大学2年生になった年の春のことです。創健診療所の仕事が軌道にのって多忙を極めていた父が突然に亡くなりました。開業医の家族とは哀れなもので、父が5月に亡くなると8月からは全く収入がなくなってしまいました。母は父が残した預金を崩しながら、専門学校に通う姉と医学生の兄、私の3人の学費を払いました。私はいつまでお金が持つかを計算して、いつ大学を辞めようかなどと思ったものです。大学3年生なってからは税理士さんの勧めで、私が九州サンクロン(株)の社員となる形をとって大学生活を続けられるようになりました。

父はまだ調剤薬局という名称がなかった頃から、既に処方箋の発行を始めていました。私は父の志を受け継ぎ、この制度を広めたいという福岡県薬剤師会の四島会長からの強い要望、そして金子伯父の医薬分業の制度に対する期待もあり医師に処方箋発行を勧める活動を始めることになりました。 当時はまだ木造で歩くたびにギシギシと音をたてる県薬剤師会館の倉庫に出向き、山積みされた処方箋用紙を貰い受けると、私はそれを持ってサンクロンの投薬医師を訪ねて回りました。現物の処方箋を始めて見るという医師ばかりでしたが、院外処方箋発行のメリットを説明して近所の薬局さんを紹介しました。  こうするうちに薬剤師の方の中にも積極的な方々が出はじめ、中でも桑原医師(サンクロン研究会会長)はでいち早く全面的に処方箋発行を始められ、その後桑原医師と藤田薬剤師の名コンビは処方箋発行の見本となりました。父の亡き後、私は困ったことがあるとこのお二人に何でも相談させていただいたものです。
医薬分業制度は、後に厚生省の基本的解釈が明確になり、国を挙げての医薬分業推進運動が始まると私の出番はなくなりました。けれども現在の調剤薬局は、四島先生や桑原先生、また当時の薬剤師の方々、金子伯父等と話していたような“医療の信頼を取り戻す”目的とは若干違う方向に向かっているように思えるのは残念なことです。
大学を卒業した後は、福岡に戻る前の半年ほどの間、東京・石神井の姉の家に滞在しながら中野の哲学堂にある伯父の家に毎日通いました。創健生活誌の制作の手伝いをする中で伯父とは毎日色々な話をしましたが、私が質問する度に「自分で考えろ」という伯父の態度が変わることはありませんでした。
 その後福岡へ帰ってからは、益々活発であった福岡創健会の活動に参加するようになりました。その頃創健会では、始まりに15分ほどの科学映画の上映が恒例で、私の役目はあちこちのライブラリーを回りながら該当しそうなものを探すことでした。当時苦労して探したフィルムの数々は、今も想い出されます。上映が終わると伯父の講話が始まり、1時間ほどの講話が終わると伯父が参加者からの質問に直接回答する時間を設けていました。多いときは30件もの質問があり、全て答えるのに1時間以上かかることもありました。当時進行役だった私は予定時間内に終わらずに困ったものでしたが、会が終わりロビーに出てからも熱心に質問に答える伯父の姿が 今では懐かしく思い出されます。そして講演の後にはきまって近所のお店に行き、共にビールを飲むのが楽しみでした。
金子伯父は戦前に軍の糧秣省に3回招集されました。その時に国内でのアルコール生産がどれくらい可能かを調査するために全国の造り酒屋を訪ねました。また大学卒業後、一時期ビール会社にも勤めていますので、若いときから毎日かなりの量を呑んでいた様です。私がお酒の席に居合わせたときには、伯父が沢山呑んでいるような場面を見たことはありませんでしたが、話好きな伯父は店の暖簾がおりてからも2〜3時間席を立たないこともあり、こんな時の午前様はさすがに聞き役の私も疲れ果ててしまいました。
こうして伯父に同行し沢山の方々とお会いする中で、伯父の大学時代からの友人で九州大学農学部食糧化学科の山藤一雄教授には毎月のようにお目にかかる機会がありました。先生はサンクロンのなかの多糖類の研究で多くの成果をあげられた方で、リグニン・キシロースの制癌作用の研究は、学術雑誌「カンサー」と「エンチモロギア」に掲載され当時大きな話題になりました。先生は実験はもっぱら助手に任せて、ご自分は朝早くから夜遅くまで机に向かい、朝食はパンとミルクだけで昼食は抜きという研究生活を過しておられました。けれども私が昼時に訪ねた時には、先生は出前をとって私をお相伴させてくれるのでした。助手の方からは、「先生にお昼を食べて欲しいから毎日でも来てください」と言われて苦笑したものでした。
そんな生活をされていた山藤先生は、後に脚が不自由になられました。私は先生の脚の様子を見て“ヘルシーペダル”と名付けた機械を作りました。これは机の足下に置くもので、腰掛けたままペダルの上に脚をのせ、丁度ミシンを踏むような動きをするものです。お試しになると、先生はなかなか都合が良いと喜んでくださいました。山藤先生が亡くなった後、このペダルは東京の友人が使っています。作家の彼も机に付いたままの仕事のため、山藤先生と似た症状に悩まされていたのでした。
 講演依頼が益々多くなるにつれ、金子伯父だけでは間に合わなくなると、母も伯父の代役として講演に行くようになりました。また私自身も“門前の小僧”で、30代から地区の創健会例会を始め老人会や婦人会等、かなりの数の会場に出向くようになりました。 講演会での金子伯父の話し方は、哲学的な意味合いを込めたもので、私にはとうてい真似できるものではありませんでした。そこで私は、創健の七つの条件に加え、“ヒトの行動”をテーマに話をすることにしました。そのきっかけは、22歳の時に読んで以来愛読している「裸のサル」という本で、この本の“他の生き物と異なるものとしてではなく、ヒトという動物として人間を観察する”という視点を会得したことで、私は緊張はしても何時間でも原稿なしで講話に臨むことができるようになりました。
さて、サンクロンの発売から20年も経つと社会情勢も大きく変わってきました。薬品製造工場の設備基準(GMP)も強化され、サンクロンの工場でも建て替えが急務になりました。そうして生産コストが上昇すると、今度はサンクロンの値上げの必要に迫られました。医薬品の価格を改定をする際には、厚生省に薬価(病院に卸す値段)の値上げも認めてもらわなければならないのですが、通常は薬価とは時代と共に下がっていくのが常識であるために厚生省は全くその値上げを認めてくれませんでした。いよいよ困り果て、厚生省の意向を待たぬまま約4割の値上げを決行せざるを得なくなりました。保険制度をご存  じでない方には分かりにくいことですが、薬価据え置きのまま値上げをすると、処方箋を受ける薬局さんも直接投薬をする医者も、サンクロン渡すごとに損をすることになります。簡単に言うと仕入れ価格よりも売値価格が低いということです。医家向けの8割は九州地区での販売で、その半分が福岡県内でした。どれほどのクレームが殺到したかはご想像にお任せします。そこで母に代わって私が九州サンクロンMの代表者になることになりました。しばらくは毎日毎日がお詫びの挨拶回りでしたが、この非常識はいくらお詫びをしても足りるっものではありません。それでも殆どの医師たちは投薬を止めることもなく、“患者さんが困るから”と損を重ねながらもサンクロンを使い続けてくださいました。その姿勢には、本当に有り難く頭が下がりました。その頃、厚生省による実勢価格調査が福岡で行われました。すがる思いで県庁の衛生部を訪ねた私は、サンクロンの逆鞘にいて報告してくれたかと尋ねましたが、本庁の役人を中洲で接待して帰らせたと聞くと、悔しさはさることながら呆れて言葉もありませんでした。
 当時は薬の実勢価格と薬価との関係が最悪の時代で、私の友人が勤める製薬会社では、1万円分の薬を買ってくれたら10万円分をサンプルで付けて更に50%引きというようなことが行われていました。サンクロンの卸価格と薬価が同じになるまでに、それから10年もの歳月がかかりました。 こうしてサンクロンの投薬医師は順調に増えて、薬局さんの取り扱いも多くなっていったのですが、今度はこの頃に厚生省による医薬品の再評価というものが始まりました。これは既に発売されている医薬薬品を再度評価する目的で始まったもので、サンクロンも当然その対象になりました。 再評価の方法は、疑似薬(偽のクスリ)を作り、患者さんの同意を得てから偽物または本物を投薬してその効果を比較をするもので、患者さんも投薬医師もその薬が本物か偽物かは判らないという二重盲検試験というやり方をします。一見科学的なように見えますが、対象者に対して不遜な方法で、これを科学的というなら科学の傲慢さといったものを感じます。
 しかし、サンクロンの再評価を行うにあたっては、それ以前の問題でした。サンクロンをご存じの方はご承知のように、液体であの色・香り・味・湯茶で薄めたときの味わいと、全ての条件を満たした疑似薬はそう簡単に作れません。この様な性質をもつ医薬品を二重盲検方で再評価しようと考えること自体が、そもそも不可能なのです。
結果的にはこの再評価によって、サンクロンは保険適応薬から外されることになりました。全国のサンクロン投薬医師から苦情が集まり、再度保険で使うことができるように署名活動が起こり始めましたが、諸事情により署名活動は中止になり、平成7年3月に各県の医師会長に活動中止の了承を頂くという不本意な結果になりました。 投薬医師には半年前から投薬の期限が来ることは知らせていましたが、医師や長年投薬を受けていた患者さんたちからのクレームは続きました。その対応に追われながら、皆さんのご理解をいただくのは大変なことでしたが、改めてサンクロンに対する評価が高いことを知り、勇気づけられました。今ではサンクロンは、薬局・薬店で購入できる一般用医薬品として扱われています。

金子伯父は平成6年5月に91歳で亡くなりました。
たくさんの話を聞き、また数多くの言葉も交わしたはずです。毎月の創健生活誌に記された論文も数多く読みました。しかし  今でも私の耳に残っているのは、「自分で考えろ」のひと言につきるように思います。
平成9年、伯父の志を引き継いだ母を学院長として福岡ライブリー学院が開講しました。父と伯父の亡き後、創健会の会員さんも高年齢になっていたことから、「同じ話をするなら若い人に話をする場所を作ってみては」と姉の一人が提案したことがきっかけでした。これは“若い人、特に結婚前の女性たちに基本生活を身につけて欲しい”という母たっての願いでもありました。子育て中の悩みから引き起こされる事件、不妊の問題、皮膚のトラブル、身体を壊すようなダイエット、サプリメントの流行、少子化の問題等々、様々な情報が乱れ飛んでいる世の中で、若い人たちが悩みを抱えてどうした行動したらよいかの判断ができなくなっていることに心を痛めてからです。
急ぎ開講の準備を始めました。講座は、長年患者さんを世話してきた母の知識と経験に元づいた話をはじめ、創健食の調理と試食、薬剤師の方・助産師の協力を得た講座などで構成することが決まりました。私  自身は、開講の2年程前から金子伯父の創健思想をどう伝えるかを考え、講座で使う教科書作りを始めました。金子伯父の創健理念を根本としながらも伯父の言葉だけに留まらず、私の視点として“ヒト”とはどんな設計図でできているかについて書き加えました。そして物理的、生理的にこのヒト(自分の身体)をどう使いこなすか、どう育むかについて考える教科書にしました。 教室ができあがり、壁に金子伯父の肖像画を掛れられると、平成9年4月1日、学院が開講しました。教室は生徒さんが集まりやすいようにと市の中心部にしましたが、平成17年の福岡西方沖地震で使えなくなり、同年6月に現在の教室に移転しました。
平成15年、サンクロン製造を継いでいた従姉妹が亡くなりました。急遽私は東京へ呼ばれ、その跡を継ぐことになりました。私は早速、東京本社で26年間の懸案であったサンクロンの値上げと、太平生物化学工業株式会社という社名をより分かりやすくしたいという思いから(株)サンクロンと変更することを決定しました。 平成19年4月、福岡ライブリー学院は開講11年目を迎えました。八十才で学院を始めた母も九十才になりました。講座は一回わずか10名の定員ながら、卒業生400名を越えるまでになりました。 母の念願であった基本生活の教えが、若い女性たちに確実に広まってきたことを嬉しく思います。これからも私は、まだまだ元気な学院長の母を手伝いながら、創健の考えを「基本生活講座」で世に広めていきたいと考えています。
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